ドコモがAndroidを採用する理由

ドコモがAndroidベースの端末へ移行か?という新聞記事が出ていた。

ドコモ携帯、基本ソフトの設計簡素化へ : 経済ニュース : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
携帯電話最大手のNTTドコモは22日、2010年までに端末の基本設計を抜本的に変更する方針を明らかにした。
(中略)
 ドコモは、設計変更で独自のネット接続サービス「iモード」や携帯に「お財布」の機能を持たせる非接触ICカード技術「フェリカ」などの機能をOSから分離し、OSを簡素化する。新しいOSは、ネット検索世界最大手のグーグルと共同開発した「アンドロイド」を採用する方向だ。

そもそもDoCoMoAndroidを本当に採用するのかどうか、怪しいところだとは思うが、それはひとまず措いておく。
まず疑問なのは、ターゲットとする端末は3Gなのか3.9Gなのかという点。ハイエンドなのかローエンドなのかと言ってもよい。ただ、2010年というと、3.9Gが始まるタイミングだ。ハイエンド=3.9G、ローエンド=3Gとひとまず考えてみる。
3.9Gがターゲットだとすると、最新の端末をAndroidベースで作るということになる。新しい通信サービスに新しい端末プラットホーム。開発期間は今から1年半というところか。開発側にとっては二重に高いハードルを課されることになる。
3Gがターゲットだとすると、3G端末をより安価に提供するのが狙いだろう。PCがそうであるように、端末の基本部分はハードもソフトも国外で世界共通の品として製造され、ドコモに端末を納めるメーカーはその上にドコモ用のソフトを追加して端末を作ることになるだろう。
そして、なぜAndroidなのか。これも疑問だ。Androidを採用する理由について解説しているこの記事は、二つの話をしていて分かりにくい。

ドコモ携帯設計変更、背景に「ガラパゴス現象」 : 経済ニュース : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
NTTドコモが携帯電話端末の基本設計を抜本的に変更するのは、三菱電機三洋電機など国内の端末メーカーの事業撤退・再編が相次いだことに危機感を強めたからだ。
(中略)
国内の携帯電話契約が1億件を突破し、市場が飽和状態に近づくと「ガラパゴス」でにわかに「種の絶滅」を連想させる出来事が相次いだ。ドコモは端末の品ぞろえを確保するためにも、路線を変更せざるを得なくなった。
(中略)
ドコモの設計変更で、海外進出を目指す国内メーカーが出てくる可能性はあるが、世界市場はフィンランドノキア、韓国・サムスン電子、米モトローラなど海外勢によって事実上の寡占状態にある。国内メーカーがシェアを伸ばすのは容易でない。(河野越男) (2008年3月23日10時27分 読売新聞)

品揃え確保が目的だとすれば、ドコモにとって、これは設計変更というより端末プラットホームの追加だ。今のドコモの主要な端末のプラットホームは松下とNECLinux系、富士通とシャープがシンビアン系。ここにAndroidを追加することで端末の設計のダイナミズムを入れていこうということだろう。端末メーカーとしても上記4社以外からの参入を期待していると思う。PC寄り、インターネット寄りの端末企画を期待しているのかもしれない。いずれにせよこれはドコモにとってメリットがある話であり、パラダイス鎖国云々は対外的に受けのよい話であるだけではないだろうか。
一方、国内メーカーにとって、Android採用が海外進出につながるとは考えにくい。今の時点で、そもそも国外においても国内においてもAndroid端末の市場など存在しないからだ。ドコモ以外のキャリアもAndroidを採用するのでなければ、大きな犠牲を払って単なるプラットホーム変更をする必要は無い。Androidをドコモがハイエンド端末向けと考えているのか、ローエンド端末向けと考えているのかは分からないが、まあ普通に考えればローエンド向けだろう。とすれば、既存国内メーカーにとっては国内ハイエンド市場での競合が増える可能性と、ローエンド端末市場がAndroid仕様によるグローバル競争に巻き込まれる可能性の二つの脅威が生じることになる。
行き着くところは、国内端末メーカーの更なる統合だろう。三菱電機ソニエリが抜け、残りのメーカーにとってはパイの取り分が大きくなったかに見えたが、ドコモそんなつもりはさらさら無く、国内メーカーが抜けるというならグローバルに門戸を開いてでも、端末メーカーの競争を煽るぞ、ということではないだろうか。競争するだけの体力が無いメーカーは整理統合されるしかない。
最後に、Googleが米国の電波オークションで敗退したこのタイミングで、なぜこのニュースが出るのか? という疑問がある。このニュースで得をするのは誰だろうか?

技術者の勤勉さとは

今更ながら、梅田望夫ウェブ時代をゆく」に出てくる「勤勉」についての話。

(P.233)「勤勉の継続」などと言うとずいぶん古めかしいと思われるかもしれないが、(中略)強いられて行う「勤勉の継続」とは決定的に違って、志向性と自発性と能動性がすべての始まりだから、彼ら彼女らにとって、勤勉は苦しみではなく楽しみなのである。

梅田さんの言う勤勉さの具体的な内容は明確だ。だが、それって言葉として「勤勉」という表現が相応しいのかなあ、というのが当初から少しひっかかっていた。
なので、ABAさんの感想

ウェブ時代をゆくが「これからの2.0世紀怠け者は去れ!勤勉であれ!勤勉であれ!」っていうトーンでまとめられていてへこんだ。まあ勤勉さは大切だけどね……

にうなずき、自分でも

勤勉、という話については私はちょっと別の考えがあるけど、これはまた今度。

書いたのだけれど、その後どうもうまく思うところを言語化できなくて、そのままになっていた。
で、さっき何となくそのことを思い返していたら、急に「こういう感じかなー」という納得感が自分の中では得られたので、その話を書く。
私も自分が好きなこと(コンピュータ)については、そこそこ「勤勉」なほうではあると思うのだが、しかしそのことを「私は勤勉だ」と表現するのは何だか違和感がある。普通の意味で勤勉な人達は、日本には多い。官僚なんかも一般的にはとても勤勉であると思う。が、そういった組織人としての勤勉さと、ここで言う勤勉さとは別のものだ。たとえば私が、仕事をさっさと切り上げて本屋に行き、気になっていたコンピュータ関連の書籍を買って急いで家に帰って読む。組織人としての勤勉さとは違うが、私の志向性の発露であるという意味では、このほうがウェブ進化論的な勤勉さに近いはずだ。でもそれって普通に使う「勤勉」という言葉の語感とは、なんだかちょっと違う。
今日思ったのは、それはむしろ「信仰心の篤さ」「信心深さ」みたいなものに近いのnかなあということ。朝晩お祈りを欠かさないとか、自分にとっての神様に恥ずかしくないように日々を過ごすという感じ。勤勉でいられるのは、その志向性を生み出す大元(私の場合はコンピュータにまつわる科学と技術)が、自分にとってとても大切なものだからだ。これは宗教で言えば神様にあたるもの。怠けたからといって誰かに非難されるものでもないが、むしろそれのために何かするのが喜びになっている。疲れたり、気分転換したくなったり、はもちろんあるが、結果的には精神的な満足感が得られる。他人の書いた素晴らしいコードを追ったりするのも、聖書を唱えたり写経をしたりするのとちょっと似ているのではないかと思う。
というわけで、技術者の勤勉さとは「ある技術分野に対する信心深さ」みたいなものかなあと思う。もうちょっと、「勤勉さ」をずばり言い換えできる言葉があると良いのだけれど…。

「パラダイス鎖国」感想続き

パラダイス鎖国」の感想の続き。もうだいぶ前(前半読んだ次の日)に読み終えていたのだが、後半部分については、なんだか感想を書けずにいた。
その理由は、パラダイス鎖国国家・日本に対する処方箋として本書に書かれている戦略が、とても納得感はあり、だがこの通りならばこの国は「ゆっくりと」しか変わらないであろう、ということが自分としては気に入らない、ということなのだと思う。
処方箋の最初のところで、とても気に入った言葉があった。「クラスター化」だ。続いて、「ゆるやかな開国」を目指そう、と続く。

(P.97)
たとえば、アメリカ人は、ウェブでなくリアル世界での「クラスター化」活動をすることにあまり抵抗感がない。もともと欧米には、人々の自発的な「クラスター化」をよしとする文化があり、そういう教育を受けているからだ。しかし、そういった文化のないシャイな日本人は、よほど強い思いがないと、なかなか行動までに移せなかった。
(中略)
そんな普通の人たちにとっても、「クラスター化」のための敷居が、ウェブのおかげで大幅に低くなったのである。
(中略)
そして、情報と人のつながりである「クラスター」が日本全国から世界へと広がれば、より多様で質のよい情報が入ってくるようになる。

今の日本にきちんと目線を合わせた提言だと思うし、色々な慣習や考え方を変えなければならないのだから、ゆるやかに変えるのがリーズナブルなのかもしれない。でも自分の人生の残り時間を考えたら、もっと急速に変わらないものかなあ、と思う。
個人でなら、一足飛びに海外へ出てしまうという手もあるのだろう。日本全体では、著者の言うようにゆるやかに変化していくのだろう。その中間解は、ないのだろうか。アメリカにおけるシリコンバレーのように、江戸自体における長崎のように、特異点を作ることはできないのだろうか。
90年代半ばまでのWebは、出島的な雰囲気があったように思う。インターネットでしか手に入らない海外の情報があった。ところが、インターネットが広く普及した結果、逆に日本のインターネット自体がパラダイス鎖国状態になってしまったように思う。その最悪の部分が携帯インターネットで、ここにはもはやグローバルな世界はほとんどない。日本のインターネットにグローバルな特異点を作ることはできないだろうか。

ネットでテレビを見るということ

テレビをネットで見ることができても、どうということはないよね。実際にできることはTVチューナーカードをPCに挿しているのと変わらないんじゃないかなあ。と、昔は思っていたが、最近は「意味があろうが無かろうが、変われないこと自体がまずい」と思うようになってきた。

ネット動画コンテンツをどう増やすか - 雑種路線でいこう
昔は僕もネットにコンテンツを出さないテレビ局は時代に逆行しているとか思っていたが、改めて再利用できるかと見直してみると、既に再利用されているコンテンツを除くとテレビという仕掛けを前提にコンテンツそのものが組み立てられていることに気付く。それをただネットに持ってくるとして、まあロケフリとかタイムマシン的な仕掛けはそれなりにニーズがあるだろうけれども、それってテレビをネットでみているだけで、必ずしもネットに合ったコンテンツじゃないし。

そうなんだけれど、それでもテレビをネットで見られることに意味があるのだと思う。今すぐ役立つという意味ではなくて、ネットで見ることが当たり前になったときに、その当たり前をベースとして次のイノベーションが起きてくるのではないだろうか。
そんな起こるかどうかも分からんようなイノベーションのために今の美味しいビジネスモデルを危機にさらすなんてできないよ、と放送局は言うのだろう。イノベーションのジレンマというやつかもしれない。けれども、そうやって日本の中で色々なチャンスを見て見ぬ振りをしてやりすごしている内に、「外」で変化が起こるだろう。
フランスでは、freeという新興ISPサービスが月額30ユーロ程度でADSLのトリプルプレイサービスを提供しており、既に400万の加入者があるそうだ。オプション契約なしに視聴できる200以上のチャンネルの中には、キー局のほかに地方ローカル局、中東など海外からの放送などが視聴でき、しかもWeb上でリアルタイムに視聴率が表示されているという。

2007-08-05 - 新・ななめ読み Sustainable Diary
これだけの多様な地域や国のテレビが視聴できるということは、要するにフランスのテレビ市場ではすでにグローバルな競争が展開されているということになる。しかも恐ろしいことに、視聴率が時々刻々と正確なデータになって公表されてしまうのだ。(http://guidebox.free.fr/ の左上にあるTop 15 Liveを参照)

番組を録画して、外部のPCからVLCメディアプレーヤを使って視聴できるようだから、おそらくDRMも、あったとしても大したことは無いのだろう。ネットで探すと、Eee PC + VLCでFreeBoxの動画を視聴、みたいな記事がたくさん出てくる。

パリ6区サンジェルマン村 | ■FreeBoxHDで遊んでみた(フランス)

こうやって、現在の技術水準を素直に取り入れたいろいろな新サービスが、現実のものとなり、やがて「当たり前」になり、それを土壌としてサービスやコンテンツやインフラに対する次のニーズが生まれ、それを満たすために本当のイノベーティブなサービスが出てくるのではないかという気がする。
それが成長力というものなのではないかと思う。成長力というものは、マスメディアによるマーケティングという名の洗脳で作り出されたニーズからではなく、規制をはずし、自由度を高め、技術的な「今できること」を広めて、普通の人の欲張り心、スケベ心を引き出し、同時にクリエイティブな人を発奮させることから生まれてくるのではないだろうか。
テレビをネットで見ることそれ自体が何かを変えるわけではないかもしれない。しかし、「テレビをネットで見られないこと」は「後ろ向きの日本」の一つの象徴であるような気がするのだ。

「パラダイス鎖国」は芯の通った良書

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54)

パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本 (アスキー新書 54)

海部 美知「パラダイス鎖国 忘れられた大国・日本」を買ってきた。まだ前半を読み終えたところだが、後半の第3章以降は流れが変わるみたいなので、とりあえず前半部分について感想を書く。
著者のブログは愛読しているが、本書はブログの内容をより深く掘り下げてあり、単にブログの内容をまとめた本ではない。前半は日本がパラダイス鎖国に至る過程の検証。テーマは一貫しており、議論の流れにもブレがない。読み応えのある内容だ。よく言われる、携帯電話の国際競争力の低下についても、短絡的な「日本の規格が独自仕様だったから」という話ではなく、メーカーがその時その時で最良の選択をしていったつもりだったのが、結果的に世界に置いていかれた形になった、という流れが分かりやすく書かれていて説得力がある。
願わくば、日本が引きこもっていくその同じ過程で、世界の国々が大きく変化していく過程も対比して書かれていれば、彼我の差がもっと明確になったかもしれない。この点で、ちょっと思い出したのが、高城剛「「ひきこもり国家」日本―なぜ日本はグローバル化の波に乗り遅れたのか」だ。タイトルを見ればわかる通り、この本も問題意識は「パラダイス鎖国」に近い。ただ、内容は「日本が引きこもっている間に世界はこんなに変わっている!」というトーンになっていて、変わりゆく世界を語ることで変われない日本を浮き彫りにしている。
高城剛という人は、語る内容があまり論理的でなかったりするし、鵜呑みにしないほうがいいのだが、この本は「ウェブ進化論」ならぬ「リアルワールド進化論」だと私は思っている。「パラダイス鎖国」と合わせて読むという前提であれば、この本もお勧め。
もちろん「パラダイス鎖国」は絶対のお勧め。最近官庁では「国際競争力の向上」をお題目にした政策が多いが、本書では国際競争力の評価指標において「共通して政府部門が最大の問題とみられている」と指摘している。規制や産業振興策や新法をひねくりまわす前に、政府の効率化をどう進めるか、真剣に検討することはできないものか。

「ウェブ時代 5つの定理」でシリコンバレーの言霊の力をもらう

梅田望夫「ウェブ時代 5つの定理」を買ってきた。まだ半分ちょっと読んだところだが、せっかく発売日に買ったのだからインプレを書く。
梅田さんの前著2冊とは違って、この本は「あちら側」のことには触れていない。世の中を変えていく、という目標に挑む時のシリコンバレー流の構え、姿勢、いわば「シリコンバレー道」みたいなものを言い表した「言葉」を集めた本だ。「この本絶対読むぞ」という意気込みは実は持っていなかったのだが、本屋でパラパラと見て「あっ、これいいな」という言葉がすぐにいくつか見つかり、とりあえず買っておくことにした。
梅田さんのいつものオプティミスティックな語り口は抑え目。前著に比べると、著者が身を乗り出して語るような感じではなく、むしろ淡々としているくらいに感じるのは、文体がです、ます調だからだけではないだろう。読者対象をなるべく広く想定しているのか、ある層に向けて渾身でメッセージを送ろうとしていた前著とは、やや意図が異なるのかもしれない。
あとがきには(あとがきから先に読む奴→私)

読者の皆さんが心の中にゴールとして持つ、仕事人としての誇りたる自らの「最終定理」(仕事上の夢やライフワーク)の証明に、でき得ればこの「5つの定理」を応用してほしい、この本はそんな願いをこめて書いたものです。

とあるのだけれど、本書に挙げられている言葉は、(決して悪い意味ではなく)実用的なすぐに応用の利くノウハウを語ったものではない。
むしろ、こういう言葉をただ浴びていれば、すぐに直接には役に立たなくても、何となく鼓舞され、勇気付けられ、その「言霊」に知らず知らずに影響され、生き方や考え方が変化していくのかな、と思う。
そういう意味では、一回通読して本棚にしまっておくのも何だかもったいない本だ。本書に紹介されている多くの言葉を、気楽に何度でも浴びることができるように、オーディオブックにしてもいいんじゃないだろうか。

追伸。一つだけ納得のいかない翻訳があったので一応書いておこう。

(102ページ)
組織は最初から贅肉なしだ。
ライン(筋肉)とスタッフ(頭脳)を分けてはいけない。
多くの大きな「デブ」会社のように
その二つを一緒にしてはいけないんだ。

最後のところ、「分けてはいけない」じゃないのかなあ…。

「死ねばいいのに」

池田信夫さんが、ASCII.jp上でいつもの持論を展開されている。
ウェブを「匿名の卑怯者」の楽園から脱却させるには
読んでいて、やや本題の内容とはズレるのだが、この部分で何となく引っかかりを感じた。

匿名の卑怯者が、はてなブックマークや匿名ブログなどに拡散している。(中略)
先日、はてなブックマークで私の記事に「死ねばいいのに」というタグをつけた者がいたので、はてな近藤淳也社長に抗議したところ、(後略)

はてブについては、以前も書いたが、私は単にオンラインブックマークとして使っていて、誰かとコミュニケーションするツールだとは思っていない。アテンションを集計するツールとしてのソーシャルブックマークには存在意義があると思っているので、自分のブックマークは公開している。しかし、コメント欄は主にブックマークした対象の内容を要約するのに使っているし、タグも他人の目に触れることは多少意識はしていても、他人のために分かりやすいよう工夫したりはしていない。これは別に私が特殊な使い方をしているわけではなく、特にコメント欄をこういう使い方をしている人はめずらしくはない。
で、引っかかりを感じたのは「死ねばいいのに」のところだ。これは「池田信夫が死ねば私はうれしい」という意味なのだろうか? 私は読んでいて、「これって何だか記号っぽいな」という気がしたのだ。
で、調べてみるとこの説明が見つかった。

死ねばいいのにとは - はてなダイアリー
ダウンタウン浜田雅功がバラエティ『ダウンタウンDX』の視聴者投稿コーナー『視聴者は見た!』で多用し、急速に広まった言葉。ギャグ。浜田が視聴者のハガキを読みあげる際、最後に「死ねばいいのに」と付け加える。(後略)

知っている人には当たり前なのだろうが、私はテレビ、特にバラエティ番組はほとんど全く見ないので、これで初めてこういうギャグがあることを知った。どのくらい広まっているのかも分からない。
しかし、実際に池田さんのどのエントリに「死ねばいいのに」タグがついたのかは知らないが、ブックマークした人がギャグとしての「死ねばいいのに」をイメージしていた可能性は結構高いのではないか。このタグは「池田信夫が死ねば私はうれしい」という意味ではなく、ブックマークした記事を読んだ後で、最後に「死ねばいいのに」と付け加えると、(ブラックな)ギャグになる感じがする…ということだったのかもしれない。
そんな低俗なタグをつけるのが悪い、という考え方もあるが、そもそもブックマークする側がはてブを「記事の著者とのコミュニケーションの場」と考えていない場合もある。私がまさにそうだ。
また、コミュニケーションであると意識していたとしても、「タグの意味が通じない」場合もあるだろう。タグの選び方はブックマークする側のバックグラウンドに依存するので、ブックマークした人とバックグラウンドが大きく異なる人がタグを見たときに、ぎょっとしたり意味不明だったりする可能性は常にある。
あまり良い例ではないかもしれないが、同じくお笑い系の記号で「欧米か!」というフレーズがある。これなど、小学生の私の子供たちは本来の意味を離れて、単なるツッコミの掛け声として使っている。それも友達同士で使っているから、彼らの間では共通の使い方が成立しているのだろう。だが、聴いている私にとっては、なぜ「欧米か!」というツッコミがツッコミたりうるのかも分からない。もし仮に私の子供がブックマークで「欧米か」というタグを使っても、なぜそのタグが付いたのかを理解できるのはごく一部の人になるだろう。
はてブを使う人は、それが「記事の著者とのコミュニケーション」である、と考えて使うべきなのだろうか? そして、タグは「広く誰にでも理解できる」言葉を慎重に選ぶべきなのだろうか? オンラインブックマークの延長として使っている私のような人間にとっては、それも窮屈な話である。むしろ、今のままで、「タグとコメント欄だけは非公開」にできるようにしてくれたほうがありがたい。タグに用いる語も、より個人的な内容(たとえば何の仕事のためにそのページを見たのかとか)を使えるようになったほうが、自分にとっては便利になるように思う。(情報漏洩などと言われても困るので、今はそういうった内容をタグとして使うのはとても抵抗がある。)