日本語が亡びるとき

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

梅田さんや弾さんが激賞していたので、「日本語が亡びるとき」を読んだ。
まず、なんとも見事な日本語・日本人・日本論だ。日本語、特に書き言葉としての日本語の成立についての解説は普通に読み物としても興味深いし、日本語の行く末についての考察の説得力もすごい。

同時に、著者の日本語に対する痛切な思いも伝わってくる。最後の2ページは涙してしまうほどだ。
いかに素晴らしい文学を抱えていたとしても、日本語と英語が素手で闘えば、本書のタイトルが示す結末から大きく外れることはないのだろう。

これはITの世界におけるプラットホーム同士の競争に似ている。

この本が訴えているのは、「日本語という書き言葉プラットホームが終わろうとしている」ということだ。もちろん、その上の数々の素晴らしいアプリケーション=文学作品もろとも。

ここで「終わる」とは、

  • 日本語というプラットホームで誰もアプリケーションを書かなくなる
  • すると、日本語というプラットホームから魅力が失われ、プラットホーム自体も進歩しなくなる
  • その結果、日本語というプラットホームとその上のアプリケーションが使われなくなるだろう

ということを言っている。

したがって、たとえ日本の文学作品全てがインターネット上にアーカイブされようと、何の救いにもならない。それは住人のいない街であり、やがては遺跡としての意味しか持たなくなる。

なぜ誰も日本語書き言葉プラットホームのためのアプリケーションを書かなくなるのか?
もちろん、英語という、よりユーザ数の多い書き言葉プラットホーム向けにアプリケーション=読み物を書くようになるからだ。
この流れはもう止められない。

しかしアプリケーションはプラットホームに制約される。英語で書かれた読み物は英語というプラットホームによって自ずから規定される。日本語というプラットホームにしかない機能を使うには、日本語で書くしかない。日本の文学は日本語で書かれたからこそ成立し得た。正確に同じ内容を英語で表現することはできない。

だが、英語と日本語のユーザ数の比は、WindowsMacどころではない大差であり、しかもインターネットによって今後確実に、ますます差が開いていく。遠からず、世界の言語は1番とそれ以外−つまり英語とその他の言語、という形に落ち着く。日本語はマイナーな一プラットホームとなり、ますますユーザ数が減っていく。

では日本語を護るにはどうすればいいのか? 著者の提言はこうだ。
1.日本語というプラットホームのアプリケーション=文学作品の素晴らしさをきちんと日本国民に教え、日本語のみを使い続ける、強力なユーザー集団&開発者集団として育てつづける。
2.日本語と英語の優れたバイリンガルを少数でよいからきちんと育てる。彼らのミッションは日本が英語プラットホームから隔絶しないよう、掛け橋になることだ。

これは論理的には全く正しい。

けれども、日本語を護るために、結果的には一部の人達を除いた平均的な日本人を、ますます英語オンチにすることになる。グローバル化は言語のプラットホームだけではなく、全ての産業、全ての職業で同時進行している。英語を使える人をより多く、という要求はますます高くなるだろう。そういう流れの中で、この提言がまともに検討されることは、おそらくない。

こういった保護主義的なやり方でなく、「日本語で書くこと」が書き手にとって経済的なメリットとなるような、うまい手はないものだろうか。

英語は読み手の数では圧倒的だ。読み手の数以外のところで勝負できないものだろうか。著者は、本書で、書き言葉の成立と資本主義が深い関係にあったことを指摘している。資本主義の仕組みに沿うやり方で、日本語を護ることはできないものだろうか。