著作権団体の陥る「被害者の呪い」

著作権関連の団体が、意見を発表するそうだ]。目的は消費者に対するアピールであるという。おそらく、家電メーカーを糾弾するような内容になるのだろう。「消費者の利益になるダビング10」の開始を遅らせている「犯人」は、著作権の権利者側ではなく、約束を破ったメーカーだ、と言いたいのだろう。
その約束は正当なものだったのだろうか。そもそもデジタル放送の録画に対して補償金を求める根拠が腑に落ちない。無名の一知財政策ウォッチャー氏が述べているように

  • HDDレコーダ自体は複製を一つしか持てない。これはダビング10以前と以後で全く変わらない。したがって課金する理由が無い。
  • ダビング10ではレコーダでDVDに複製できるが、現状DVD媒体には既に課金されている。したがって追加で課金する理由が無い。

という状況だからだ。
もう一つ不快なのは、権利者側が「被害をこうむっている」と主張していることだ。では加害者は誰か。複製を行っている消費者だろう。権利者は(仮にもお客様である)消費者を直接に批難してはいないが、メーカーは消費者が権利者に加えた害を、消費者に代わって補償している。消費者は、実は加害者として糾弾されているのである。
しかし消費者は、iPodのような機器を使うことで、著作権者に害をなしている、というような後ろめたさは微塵も感じない。なぜならそれは複製ではないからだ。家庭内において、たとえばCDをiTunesiPodに移すのは、CDがメディアとして利便性を欠くからである。PCやiPodへ複製する目的はコンテンツをより小さく・軽く・検索性の高い別メディアに移すことであり、複製になってしまうのは副作用だ。実際、CDとiPodを同時に別の場所で再生することはほぼ無いだろう。
こんなことは、著作物のヘビーユーザでもあるはずの著作権者なら、当然分かっていることだろう。ならば彼らはなぜ、「補償」を求めるのか。
内田樹さんの書かれた「被害者の呪い」という文章がある。これを読んだとき、これはまさに著作権の権利者が陥っている状況そのものだ、と思った。

「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。
もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。
「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

著作権の権利者は、まさにこの状況にあるように思う。彼らは永遠に、「被害者」として振る舞わねばならない。被害者でなければ補償金を受け取る理由が無いし、補償金を受け取るのが権利者団体の存在意義の一つだからだ。補償金という制度が存在する限り、おそらく彼らはこの呪いから自力では抜け出せない。権利者自身にとっても、メーカーにとっても、消費者にとっても不幸な状況だと思う。
多くの人が言っているように、この状況を解き放つにはまず「補償金」という名称を廃し、「権利者は被害者ではない」というところから出発しなければならないだろう。権利者が収入を得られるのは家電製品のおかげだし、家電製品が売れるのは権利者のおかげだ。もちろん消費者は恩恵をこうむっている。
そのためには著作権法を一度リセットしなければならない。知的財産戦略本部の専門調査会に期待したい。時間はかかるかもしれない。「北京五輪ダビング10」どころか、「アナログ放送終了前にダビング10」も無理かもしれない。しかし、本田雅一さんも書かれているようにダビング10なんて正直どうでもいいのですよ。ずっと「加害者」として「補償金」を支払い続けるくらいなら。