梅田塾、齋藤道場

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる (ちくま新書)

齋藤孝×梅田望夫私塾のすすめ」を読んだ。
ここのところでお茶吹いた。

(梅田) 結局、アメリカの会社に十年つとめることになったのですが、研修は全部欠席して、一度も受けたことがないんです。全員並んで人の話を聞くというのが、どうにも駄目なんです。それに、大の大人が、いつ必要になるかはっきりしない知識やスキルを強制的に勉強させられるという枠組みに耐えられない。 (p.173)

個人的にはとても気持ちが分かるのだけれど、本当にそれやっちゃったということは、会社員としての梅田さんはかなり変人だったんだなあ、と。
さて本書は教育論、というと漠然としているが、他者(主により若い世代)との一対多での交流のあり方、みたいなものを齋藤さんと梅田さんがぶつけ合うという内容だ。
齋藤さんの著書を私は読んだことがなかったのだけれど、齋藤さんは、身体的なものも含めた訓練を活用する、ということを非常に工夫されているようだ。たとえば、この喝采体験の話などは本当にとても良い。

(齋藤) 僕は「喝采浴びゲーム」というのを考案したことがあります。(中略)学生に一人ずつ一分間話をしてもらって、他の人全員がその学生に喝采を浴びせかけるというゲームです。そうしたところ、喝采を浴びた学生は皆。「クセになります」「喝采を浴びるためだったら、何でもしたくなります」と言います。 (p.97)

誉められ体験も重要だが、この訓練には自分の体を使って声を出して何度も人を誉めるということが含まれていて、これがすごく重要だと思う。
一方、梅田さんが志向しているのは、おそらく訓練ではなく対話だ。一対多ではあるけれども、自著の感想を読みまくるというのもある種の対話だと思う。冒頭のお茶吹いたところに戻ると、新入社員研修というのはまぎれもなく訓練そのものだ。私もそうなのだが、訓練ではなく対話を志向するタイプの人間にとって、訓練を強いる研修というのは忌々しいものだ。(もっとも、きちんと設計された研修には訓練と対話がうまく織り込まれているものだが。)
さてそんな二人が私塾的な教育についてあれこれと意見を交わしているのだけれど、二人のスタイルは違っているから、特にネットの使い方という部分で微妙にすれ違う。現時点でネットに親和性が高いのはやはり梅田さん。「ネットで私塾」という話を振っているのも梅田さんなのだけれど、考えてみればブログというのは明らかに対話的なあり方に向いている。
でも、齋藤さんの訓練型スタイルが今後ネットの中で広がる可能性も、実はあるのじゃないかと思う。ベタすぎる例だが、Wiiみたいな身体を使うゲームをネットで使う場合とかを考えてみれば、訓練的なものとネットとの親和性も可能性はありそうだ。身体性という意味では、端末の形態も重要な要素になってくるから、ツールはPCとブラウザではなく何か別のものになるかもしれない。
そういう訓練型の場は、私塾というより道場のようなものになるのではないかと思う。たとえば「喝采浴びゲーム」をやる道場。稽古を繰り返すと、参加した人のエネルギー値が上がっていく。自然に人を誉められるようになる。
ネットでそんなことができたらいいなあ。できないはずはないよなあ。そんな妄想が湧き上がった一冊だった。