技術者の勤勉さとは

今更ながら、梅田望夫ウェブ時代をゆく」に出てくる「勤勉」についての話。

(P.233)「勤勉の継続」などと言うとずいぶん古めかしいと思われるかもしれないが、(中略)強いられて行う「勤勉の継続」とは決定的に違って、志向性と自発性と能動性がすべての始まりだから、彼ら彼女らにとって、勤勉は苦しみではなく楽しみなのである。

梅田さんの言う勤勉さの具体的な内容は明確だ。だが、それって言葉として「勤勉」という表現が相応しいのかなあ、というのが当初から少しひっかかっていた。
なので、ABAさんの感想

ウェブ時代をゆくが「これからの2.0世紀怠け者は去れ!勤勉であれ!勤勉であれ!」っていうトーンでまとめられていてへこんだ。まあ勤勉さは大切だけどね……

にうなずき、自分でも

勤勉、という話については私はちょっと別の考えがあるけど、これはまた今度。

書いたのだけれど、その後どうもうまく思うところを言語化できなくて、そのままになっていた。
で、さっき何となくそのことを思い返していたら、急に「こういう感じかなー」という納得感が自分の中では得られたので、その話を書く。
私も自分が好きなこと(コンピュータ)については、そこそこ「勤勉」なほうではあると思うのだが、しかしそのことを「私は勤勉だ」と表現するのは何だか違和感がある。普通の意味で勤勉な人達は、日本には多い。官僚なんかも一般的にはとても勤勉であると思う。が、そういった組織人としての勤勉さと、ここで言う勤勉さとは別のものだ。たとえば私が、仕事をさっさと切り上げて本屋に行き、気になっていたコンピュータ関連の書籍を買って急いで家に帰って読む。組織人としての勤勉さとは違うが、私の志向性の発露であるという意味では、このほうがウェブ進化論的な勤勉さに近いはずだ。でもそれって普通に使う「勤勉」という言葉の語感とは、なんだかちょっと違う。
今日思ったのは、それはむしろ「信仰心の篤さ」「信心深さ」みたいなものに近いのnかなあということ。朝晩お祈りを欠かさないとか、自分にとっての神様に恥ずかしくないように日々を過ごすという感じ。勤勉でいられるのは、その志向性を生み出す大元(私の場合はコンピュータにまつわる科学と技術)が、自分にとってとても大切なものだからだ。これは宗教で言えば神様にあたるもの。怠けたからといって誰かに非難されるものでもないが、むしろそれのために何かするのが喜びになっている。疲れたり、気分転換したくなったり、はもちろんあるが、結果的には精神的な満足感が得られる。他人の書いた素晴らしいコードを追ったりするのも、聖書を唱えたり写経をしたりするのとちょっと似ているのではないかと思う。
というわけで、技術者の勤勉さとは「ある技術分野に対する信心深さ」みたいなものかなあと思う。もうちょっと、「勤勉さ」をずばり言い換えできる言葉があると良いのだけれど…。